銀行口座は「客観的な事実」を語る
相続手続きにおいて、遺産分割協議をスムーズに進めるための鍵は「情報の透明性」です。
「預金残高が予想よりも少ない」という場合、そこに不正があるとは限りません。長年の介護費用や医療費、家のリフォーム代など、正当な出費があった可能性も十分にあります。 しかし、どんぶり勘定のまま進めると、後になって「あの時のお金はどうした?」という不信感の種になりかねません。
疑心暗鬼を防ぎ、全員が納得してハンコを押すために最も有効な手段、それが「取引履歴(入出金明細)」の取得と開示です。 本記事では、過去のデータを客観的に検証し、資金の流れをクリアにする手法を解説します。
1. 取引履歴を確認すべきケース
全ての相続で過去10年分を調べる必要はありません。しかし、以下のような不明瞭な点がある場合は、事実確認のために取得が推奨されます。
ケース①:使途不明金(Undocumented Funds)の確認
死亡直前に、ATMでまとまった金額の引き出しが続いている場合。 葬儀費用や入院費の精算として引き出されることが一般的ですが、その領収書と出金額が一致しているかを確認する必要があります。
ケース②:生前贈与(Inter Vivos Gift)の確認
特定の相続人に対して、住宅資金やまとまった贈与が行われていた可能性がある場合。 これは「特別受益(とくべつじゅえき)」として、遺産分割の計算(持ち戻し)に影響する可能性があります。公平な遺産分割のためには、過去の贈与額を正確に把握することが不可欠です。
ケース③:名義預金の調査
親の口座から、子や孫の名義の口座へ定期的な送金がある場合。 実質的に親の管理下にあった場合、税務署から「名義預金(親の財産)」と指摘される可能性があります。税務リスクを回避するためにも実態の把握が必要です。
2. 開示請求の手順と「10年の保存期間」
どこまで遡れるか?
銀行の商法上のデータ保存義務などに基づき、一般的に「過去10年分」の開示が可能です。 それ以前(20年以上前)のデータについては、銀行によって対応が分かれますが、システムなどの都合で取得できない場合が多いです。
請求手続き
- 窓口: 「取引履歴の開示請求」を行います。相続手続きと同時に行うのがスムーズです。
- 必要なもの: 戸籍謄本(相続人であることの証明)、実印・印鑑証明書、身分証。
- 期間指定: 「平成○年○月○日から、死亡日まで」と具体的に指定します。
- 手数料:
- 銀行により異なりますが、「1ヶ月あたり数百円」や「1件あたり千円〜数千円」の手数料がかかります。
- 10年分などの長期間を請求すると、数万円単位のコストになることもあるため、まずは直近2〜3年分を確認し、必要に応じて遡るのが合理的です。
3. 明細から読み解く「資金移動のパターン」
取り寄せた明細リストを確認する際のポイントを解説します。
パターンA:定期的な第三者への送金
- 特徴: 毎月決まった日に、特定の個人や団体へ送金されている。
- 確認点: 家賃や駐車場代、あるいは親族への援助などが考えられます(サブスクリプション等の可能性も)。使途が不明な場合は、振込先の名称を確認します。
パターンB:窓口での多額出金
- 特徴: 「出金 300万円」といった、ATM限度額を超える記録。
- 確認点: 窓口で手続きが行われています。本人が足を運んだのか、代理人が行ったのか。銀行には当時の「払戻請求書(伝票)」が保存されているため、必要に応じてその写しを請求し、筆跡などを確認することも可能です。
パターンC:使途不明のATM出金
- 特徴: 生活圏外のATMや、入院期間中の頻繁な引き出し。
- 確認点: 本人が物理的に動けない時期の引き出しであれば、キャッシュカードを管理していた人物による出金の可能性が高いです。介護用品の購入や病院への支払いなど、正当な理由がある場合は、領収書や請求書と照らし合わせます。
4. 「不当利得」となる場合
調査の結果、本人の意思に基づかない、あるいは正当な理由のない引き出し(無断使用)であることが明らかになった場合、法的には「不当利得」として返還を求める対象となります。
- 解決策: まずは当事者間での話し合い(遺産分割協議での調整)を目指します。
- 法的措置: 話し合いで解決しない場合は、不当利得返還請求訴訟などを検討することになりますが、立証責任(それが無断であることを証明する責任)は請求する側にあり、ハードルは低くありません。専門家(弁護士)の判断を仰ぐべきフェーズです。
5. 【FAQ】取引履歴調査の実務
Q. ネット銀行の履歴はどうなりますか? A. データ取得ができれば無料の場合が多いです。 故人のID・パスワードでログインできる場合、CSV形式などで長期間の履歴をダウンロードできることがあります。ログインできない場合は、通常の書面開示請求(有料)となります。
Q. 隠し口座があるかどうかもわかりますか? A. 資金の流れから推測できることがあります。 メインバンクの履歴に、他の金融機関への振込記録があれば、そこに別の口座が存在することが分かります。履歴は「他の資産への地図」として役立ちます。
Q. 税務署もこれを見ているのですか? A. はい、確認しています。 税務調査官は、職権で銀行データを調査することができます。家族間の大きなお金のやり取り(贈与)は把握されている前提で、申告漏れがないよう正確に処理することが重要です。
6. まとめ:事実に基づく冷静な話し合いを
「お金が消えた」と感情的になる前に、まずは客観的な記録(エビデンス)を手元に揃えることが大切です。
数字は感情を持ちません。そこにあるのは事実だけです。 その事実を全員で共有し、不明な点は領収書などで確認し合う。そのプロセスこそが、不要な争いを避け、円満な相続を実現する近道となります。
記録が揃い、資産の全容が見えたら、実際の遺産分割と手続きの実務へ進みます。 代表相続人の選任と法的責任(Article 09) で、手続きの代表者を誰にするかを確認しましょう。