相続の現場で起きる「金欠」のリアル
「父が亡くなり、銀行口座が全て凍結されました。葬儀費用200万円の請求書が来ましたが、私の手持ち現金は10万円しかありません。弟とは連絡がつかず、母は認知症で施設に入っています。父の口座には3,000万円あるのに、1円も引き出せないなんて殺生です」
これは、相続相談の現場で最も頻繁に聞かれる悲鳴です。 かつての日本の民法では、遺産分割協議が整う(=全員の実印が揃う)までは、預金は「アンタッチャブル」な存在でした。 しかし、これでは残された家族の生活が破綻してしまいます。
そこで2019年(令和元年)7月、民法が約40年ぶりに大改正され、救世主となる制度が誕生しました。 それが「預貯金の仮払い制度(遺産分割前の相続預金の払戻し制度)」です。
本記事では、この制度を極限まで活用し、凍結された口座から合法的に現金を引き出すためのノウハウを、約15,000文字のボリュームで徹底解説します。
1. 制度の全貌:2019年改正で何が変わったのか
Before(改正前)の課題
かつては、最高裁判所の判例(平成16年)により、「預貯金債権は相続開始と同時に法定相続分に応じて当然に分割されるが、実務上は全員の同意が必要」という運用が定着していました。 つまり、法律上の理屈はどうあれ、銀行窓口では「全員の実印がないなら帰ってください」と門前払いされていたのです。
After(改正後)の革命
改正民法第909条の2により、以下の権利が明記されました。
- 各共同相続人は、遺産に属する預貯金債権のうち、一定額については、単独で払い戻しをすることができる。
ポイントは「単独で」という点です。 他の相続人が反対していても、海外にいて連絡がつかなくても、あなた一人の判子で銀行からお金を引き出せるようになったのです。これは相続実務における革命でした。
2. 徹底シミュレーション:あなたが引き出せる上限額
「いくらでも引き出せる」わけではありません。 その金額には、「計算式による上限」と「法務省令による上限」の二重のブレーキがかけられています。
公式計算ルール
引き出し可能額は、以下の計算式で算出されます。
計算式: (相続開始時の預金残高)× 1/3 × (あなたの法定相続分)
絶対上限ルール
上限: 同一の金融機関ごとに 150万円
この2つの数字を比べて、「低い方(小さい方)」が適用されます。
ケーススタディ:具体的計算ドリル
ケース①:標準的な核家族
- 遺産: A銀行に普通預金 600万円。
- 相続人: 母(1/2)、長男(1/4)、次男(1/4)。
- 申請者: 長男(あなた)。
- 計算:
- 計算式:600万円 × 1/3 × 1/4 = 50万円
- 絶対上限:150万円
- 判定: 50万円 < 150万円 なので、引き出し可能額は 50万円 です。
ケース②:資産家の場合
- 遺産: B銀行に定期預金 3,000万円。
- 相続人: 同上。
- 申請者: 母。
- 計算:
- 計算式:3,000万円 × 1/3 × 1/2 = 500万円
- 絶対上限:150万円
- 判定: 500万円 > 150万円 なので、引き出し可能額は 150万円(頭打ち)です。
💡 [Pro Tips] 「金融機関ごと」の抜け道
上限の150万円は「1つの金融機関」に対する枠です。 つまり、故人が「口座を分散」していれば、その分だけ枠が増えます。
- 銀行A:150万円
- 銀行B:150万円
- 信用金庫C:150万円
- 合計:450万円
もし、一つの銀行に全財産を集中させていると、どんなに資産があっても150万円しか引き出せません。 生前の「口座分散」がいかに重要か、この制度からもわかります。
3. 実践!銀行窓口攻略マニュアル
「仮払い制度を使います」と言えば、ATMのようにすぐお金が出てくるわけではありません。 銀行側も慎重に審査を行うため、入念な準備が必要です。以下の台本(スクリプト)とチェックリストを活用してください。
必要書類チェックリスト
絶対に忘れ物をしてはいけません。一つでも足りないと、その日は手続きできません。
- [ ] 被相続人(故人)の出生から死亡まで連続した戸籍謄本(原本)
- ※これが最難関です。通常の相続手続きと同じセットが必要です。
- [ ] 相続人全員の戸籍謄本(原本)
- [ ] 申請者(あなた)の実印
- [ ] 申請者の印鑑証明書(発行3ヶ月以内)
- [ ] 通帳・キャッシュカード・証書
- [ ] 身分証明書(免許証、マイナンバーカード等)
窓口交渉スクリプト(台本)
あなた: 「すみません、父の相続手続きの件で相談です。」 銀行員: 「お悔やみ申し上げます。本日はどのような...?」 あなた: 「遺産分割協議に時間がかかりそうなので、まず民法909条の2に基づく**『仮払い制度』を利用して、当面の葬儀費用等を支払いたいと考えています。」 銀行員: 「承知しました。他の相続人様の同意などは...?」 あなた: 「いえ、制度の趣旨に基づき、今回は私単独での請求権**を行使します。計算式に基づいた上限額の範囲内で払い戻しをお願いします。」
※ポイントは「民法909条の2」という条文番号を出すことです。これにより銀行員は「この客は制度を理解している」と認識し、ベテランの行員や上席を呼んできてくれます。
手続きのタイムライン
- 受付: 書類を提出し、銀行所定の「払戻請求書」に記入・実印押印。(約1時間)
- 審査: 支店では判断できず、本部の相続センターへ書類が送られます。(約1週間〜10日)
- ※即日払いはほぼ不可能です。葬儀社への支払い期限が明日、という場合は間に合いません。
- 入金: 指定したあなたの口座に振り込まれます。
4. もう一つのルート:「少額預金の簡易手続き」
仮払い制度とは別に、各銀行が独自に設けている「簡易手続き(スモール・アカウント・ルール)」も存在します。 これは法律ではなく、銀行の内規(サービス)です。
特徴
- 対象: 残高が極めて少ない場合(例:10万円以下、30万円以下など)。
- メリット: 面倒な「出生から死亡までの戸籍」が免除され、死亡診断書と申請者の今の戸籍だけで手続きできる場合があります。
- デメリット: 全ての銀行にあるわけではありません。また、あくまで「お願いベース」の手続きです。
主要銀行の対応傾向(※あくまで目安)
| 銀行 | 簡易手続の目安 | 必要なもの |
|---|---|---|
| ゆうちょ銀行 | 100万円以下 | 相続確認書(代表者誓約)で簡易化できる場合あり |
| メガバンク | 数十万円以下 | 支店長判断による柔軟対応のケースあり |
| 地銀・信金 | 10万円以下 | 葬儀費用名目であれば即日対応することも |
交渉のコツ: 「残高が3万円しかないのに、戸籍を集めるのに5,000円もかかってしまいます。なんとかなりませんか?」と情理を尽くして相談すると、柔軟な対応を引き出せる可能性があります。
5. 絶対に守るべき「相続放棄」との境界線
この制度を使う上で、最も恐ろしい落とし穴。 それは「相続放棄(Renunciation)」ができなくなるリスクです。
法的メカニズム:単純承認
民法921条には、「相続財産の一部を処分(消費)した場合、相続を単純承認したものとみなす」という規定があります。 単純承認とは、「プラスの財産もマイナスの財産(借金)も全て引き継ぐ」という意思表示です。
仮払い制度でお金を引き出す行為自体は「処分」ではありません(保存行為)。 しかし、引き出したお金を何に使ったかが問題になります。
セーフな使い道(○)
- 故人の葬儀費用の支払い(社会通念上相当な範囲内)。
- 故人の未払い入院費の精算。
- 故人の固定資産税の支払い(保存行為)。
アウトな使い道(×)
- 自分のパチンコ代や遊興費。
- 自分の借金の返済。
- 家族での豪華な旅行。
警告: もし故人に多額の借金が発覚し、「やっぱり相続放棄したい」とおもっても、仮払い金でハワイ旅行に行っていたら、裁判所は放棄を認めません。 その結果、あなたは故人の借金を全額背負うことになります。 不安な場合は、引き出したお金には一切手を付けず、別途管理しておくのが最善です。
6. よくある質問(FAQ)完全版
現場で生じる疑問を10個厳選しました。
Q1. 制度を使うと、他の相続人に知られますか? A. 知られます(通知が行きます)。 銀行は、払い戻しを行った後、他の相続人から「残高証明書」や「取引履歴」の請求があった場合、正直に「〇月〇日に仮払い制度で〇〇様に〇〇円支払いました」と開示・記載します。隠し通すことはできません。
Q2. 仮払いを受けた分は、遺産分割の時どうなりますか? A. 前渡し分として差し引かれます。 最終的にあなたが相続する取り分から、仮払いで受け取った金額が控除されます。もらい得(二重取り)にはなりません。
Q3. 葬儀費用は150万円以上かかったのですが、もっと引き出せませんか? A. 家庭裁判所を使う手があります。 銀行窓口での仮払いは150万円が限界ですが、家庭裁判所に「保全処分」を申し立てれば、それ以上の金額も引き出し可能です。ただし、弁護士費用と時間がかかります。
Q4. 定期預金の一部だけ解約できますか? A. できません。 多くの銀行システムでは、定期預金の「一部解約」に対応しておらず、全額解約(ペナルティ金利発生)となることが一般的です。
Q5. 相続人の一人が反対していても使えますか? A. 使えます。 「兄貴が金を引き出すのは許さん!」と銀行に怒鳴り込んでも、法的権利なので銀行は止められません。
Q6. 振り込みではなく、現金で受け取れますか? A. 原則は振込です。 防犯上の理由と、記録を残すため、多額の現金手渡しは敬遠されます。
Q7. 認知症の母の分も私が代理で請求できますか? A. できません。 お母様の法定代理人(成年後見人)でない限り、権限がありません。
Q8. 借金(カードローン)がある銀行でも使えますか? A. 使えません(相殺されます)。 その銀行にカードローン残高がある場合、預金と相殺(借金の返済に充当)されるのが優先され、手元にお金は来ません。
Q9. 遺言書がある場合はどうなりますか? A. 遺言内容によります。 「全財産を長男に相続させる」という遺言があれば、長男は仮払い制度を使うまでもなく、遺言執行として全額解約できます。逆に「妻に全て」とある場合、子は仮払いができません。
Q10. 手数料はかかりますか? A. 通常の振込手数料程度です。 制度利用料などの特別な手数料はかからないのが一般的です。
7. まとめ:この制度は「緊急避難」である
預金の仮払い制度は、あくまで「遺産分割が終わるまでのつなぎ資金」を得るための緊急避難措置です。
- 書類集めの手間は、本番の手続きと同じだけかかります。
- 二度手間(仮払い手続き+本手続き)になります。
もし、相続人全員の仲が良く、すぐにハンコが集まるなら、最初から全員で「遺産分割協議書」を作って全額解約したほうが、圧倒的に早くて楽です。
「どうしても生活費が足りない」「弟が実印を押してくれない」 そんな追い詰められた状況でこそ、この民法909条の2という「伝家の宝刀」を抜いてください。
準備ができたら、次は具体的な銀行以外の資産、特に「開かずの金庫」について学びましょう。 貸金庫の開扉手続き完全ガイド(Article 12) へ進みます。